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国際ロータリー第2530地区 社会奉仕委員会

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震災・原発事故と福島の女性たち 2015

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福島のこれから
〜早い復興と人々の日常と笑顔が戻るフクシ
マを願って〜 吉田陽美【福島市】
 あの日から4年半。私たち福島の人間はまるで何事もなかったかのように日常を過ごしている。

 福島の自然はあくまでも美しく、野菜も果物も美味しくて豊かだ。朝、庭に出て畑から野菜を取り、それを調理して食べる生活は依然と全く変わりない。でもひとつ変わったことがある。家で収穫したものはまず含有放射線量を計ってから食べる。他人にあげるときも「放射能は大丈夫でした」のことばが添えられる。

 店の周りは温泉街にも拘わらず、ほとんど人通りがなく静かだ。でもあの時この町には1,000人を超す人々が避難してきていた。店(薬局)は薬を求める人々であふれ、近くのコンベンションホールは床いっぱいに避難の人々が休んでおられた。みなさん、すぐに家に戻れるものと思っていて、多くの不便に耐えておられた。皆が同じ不便や苦しみを背負っているという一種の高揚感にも似たエネルギーが満ちていた。帰る日のためにもと、ウオーキングなどをする姿にも、まだ元気があった。

 6月に入り、暑さの中でも放射能が心配で窓を閉め切ったまま授業を続けていた学校がある。体育は屋内で、というところがほとんどだった。各学校は夏休み中に(除染)といって校庭の表土をはぎ取り、隅に大きな穴を掘ってはぎ取った土を集め、ビニールシートをかぶせて埋め戻していた。

 2〜3年目からはそれが各家庭にも及んでいる。除染で出た土を埋め戻すスペースのない家は黒いビニール袋に入れて庭の隅に置いてある。屋根や塀を水で洗い流し、その水は下水へと流れてゆく。除染と言っているが、実際は放射能で汚れたものを他の場所に移すだけの移染ではないのか!と思ってしまう。それが今でも続いている。大雨が降り、大風が吹いた4年半経った今でも‥・。

 2年目の秋、小学校では生徒たちが長時間歩けるのか心配なので、いつもなら歩く遠足だが、電車を使うことにしたと先生が話しておられた。肥満の子ども達も増えてきている。

 当時放射能が60キロも離れたここ福島に流れてきていたという事も知らず、多くの人々が給水車に長い列を作り、子どもを連れて長時間並んでいた。また、ガソリンを求める長い車列を整理していたお兄さんは雨に濡れていた。あの頃の福島は、毎時20マイクロシーベルト以上の時もあったのだ。

 避難する人であふれていた私の街は、今は全国から集まってきた除染業者でいっぱいだ。人が増えるのは良いことばかりではない。また、甲状腺の問題、子どもの運動の問題、免疫力や体力の問題等など、すぐには表に現れてこないがじっくりと対策をとっていかなくてはならない問題も多い。

 あの日以来、「福島」が「フクシマ」になってしまった。世界のフクシマ、がんばろうフクシマ。