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国際ロータリー第2530地区 社会奉仕委員会

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震災・原発事故と福島の女性たち 2015

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毎日、平和に暮らしたい                            阿部一子【福島市】
 私の仕事は農業です。先祖代々受け継がれてきた田畑を耕して生計を立てています。私達で9代目になります。

 思いも寄らぬ出来事は突然やって来るものなのですね。

 大きな地震で家は半壊になり、それだけではなく、東京電力福島第一原子力発電所の相次ぐ、水素爆発で60キロ以上も離れた、私の住む福島市にも沢山の放射性物質が降り注ぎました。原発の安全神話に洗脳されていたので、原発が爆発するなんて想像すらしていませんでした。それからが大変でした。チェルノヴイリの原発事故の時、私は4ケ月になった娘を抱いて、母乳を飲ませていいのかどうかで悩みました。

 その時の赤ちゃんが、母親になり6ケ月になる赤ちゃんを抱いています。娘の顔はひきつり、小さな子どもを持つ母親の不安な気持ちはモンスターのように大きく心身にのしかかっているようでした。この子の未来は?と不安は募ります。

 私は、放射能の降り注いだ田畑で作物を作っていいのかどうかで悩み続けました。いつものように米や梨、野菜を作り、実った作物から放射性物資が検出されたら、食べる事は出来ないし、そのまま畑に放置したら、再び畑に戻って汚染を引き起こします。

 どうすればいいのか判断がつかず、思考停止状態が続きました。私達の田畑には、どれ位の放射能が降り注いだのか、分からないというのが一番の不安の素。それなら自分の目で確かめようと、土も空間線量も測れるサーベイメータを購入して、身の回りの放射性物質の“見える化”に取り組みました。知ることは生きる力につながります。梨の実は1kg中28ベクレルの放射性セシウムが含有されていました。

 当時の日本の食品の暫定基準値は500ベクレル/1kgでしたので、食べてもいいのではないかと思われるものでした。家族の命を守るため、私達の作った作物を食べて下さる人達の命を守るため、しっかり測定し数値を提示していきました。

 2012年。梨の木の表面に放射性セシウムが付着しているというので、400本の梨の木の皮を削りました。2013年。畑の表土5cmをはぎ取り、袋に入れて畑の隅に埋めました。それが効を奏したのか、2014年に収穫した梨は放射性セシウムが1kg中1〜2ベクレルになり福島の農業の再生は可能だと思えるようになって来ました。

 1990年4月、夫の実家の農家の後を継ぐと決めて4人の子どもと大阪から福島へ引っ越してきました。何となく農業がおもしろそうに思えてのことで、特別に福島に魅力を感じたわけでもなく、たまたまそこが福島だったということなのですが、たまたまの福島が大きく変わりました。私はここが好きで、ここで農業をして生きていきたいんだと、はっきりと自覚した4年間でした。

 命の未来に原発はいらない!第二のフクシマはいらないと自覚できた4年間でもありました。